只今から昭和三十九年十一月八日朝の御理解を頂きます
目先目先の難儀な問題を、どう信心でお陰にしていくかと、そういうところからお互いの信心が始められるわけなんですけれども、目先目先のその問題が目先目先の問題でなくなり、その問題が今、その難儀が、神愛の現れであると分からせて頂くのに、そこに段々私共の心の中に培われてくるものは、不動の信念である。
お互いが目先目先の難儀な問題がお陰になって行くと言うことだけが信心のように思っておるけれども、目先目先の難儀なと言うか、問題こそ実は神愛の現れであると言うことを分からせて頂く時、私共がどう言う問題に直面致しましても、または、どう言う難儀に遭いましても、所謂驚かんですむ、慌てないですむところのお陰、心を汚さんですむところの状態でお陰を頂いて行けれる。
その問題を神愛と分からせて頂くために、お道では話がある。話を聞いて助かるということは、そういうことだと思う。話を頂いていく、そこに例えば身についておるようであり、いないのでありながら、段々それが身について行く。それが体験と共に目先の難儀という、また、問題というそれを言うなら、回り舞台がぐるりと回るというところである。今、正面に出ておるこの舞台面いうのは、まあ言うならその氏子、その人の難儀な場面であっても、その裏の方では、もう裏方さんが一生懸命、例えば、十年後、十五年後の舞台装置ができておる。そこには、十なん年前あんな難儀をいたしましたけれども、それがこう言うお陰の元になったという舞台に替えられてくるという体験が私共の信心、日々の信心の中から感じ取ることができる。だからその繋を有難く、その繋をまあたぎらかすではないでしょうか。繋を私共がお陰を落とさんですむ状態でつないでくれるものは話である。お道の信心は話を聞いて助かる道、いわば話を聞いて助かる、その過程が助かるのである。これは絶対のものである。神愛の現れであることは、絶対のものであるけれども神愛の現れということを話によって繋ぐのである。そしてなるほど裏の方では、もう神様の働きがです、いわば直ぐのお陰が頂かれる場面がもう作られておるということ。承知ができておるということ。そこを信じれるお陰を頂くから、信心させて頂いているものは有難いと私は思う。
CD子供のときに、父にせがんで、私の父がいつも私に、いろんなお話してくださる。寝てからお話をせがむ、今度はあのお話をしてくれるかなあ。話はいくつかに決まっている。そんななかに、こんな話をしなさる。昔、ある大きなお金持ちの家に泥棒が入った。もう、家の人、旦那さんも、奥さんも、もう召使達、みんな泥棒のために縛られてしまった。縛られあげてしまった。たくさんのお金をまあ千両の金なら千両箱を持って積み上げて、泥棒達が話し合って、お腹が空いたから、いっちょここで飯を炊かした。ご飯を食べて帰ろうというのでそれから縛られてある女中を解いて、ね。それからご飯を炊かした、もう何もないからそんなら漬物でもよいから、漬物でも出せと。そこで女中がいうた、なかなか漬物石が重いからあんた方が重石をいっちょ上げてくれというたから、漬物部屋にそのガンドウの一人を連れていって、漬物の重石をこうやってから一生懸命に力んで降ろしよるところをガンドウが差しておる刀を引き抜いて、女中がその首を打ち落としたというわけ、その首を持っていってから、ご飯を食べるばかりになってから、漬物をもっておるその輪をかいて持っているガンドウ達の真中にですね、ホラ漬物と投げ出したところがそれが首だった。それで、びっくりして逃げたという。後で打ち落としたその首をよくよく見たらそれがハナギ「端木」じゃったげな。葉がなかった。それはもう分かっているです、そういうことになることはもう何遍も何遍も聞いて分かっているんです。分かっているんですけどやはりせがんで、あのガンドウの話をしてくれ。またそれを同じ口調で同じように話してくれます。それで結構楽しんでそのまま休ませていただきます。
問題はね、せがむ心がなからねばいかんです。いわば求める心がなからねばいかんです。よくそれはいうならばそういうような話であったにいたしましても、それを知らぬところに、それが尽きぬ有難さというものを感じれる話とは、なかなか私は今日、話を聞いて助かるということはそう言うことではなかろうかとこう思う。それには、いかに私共がですね、その話を聞くということに、重きをおかなければならないか、お道の信心は、私共がその目先、目先、その問題そのものに、いわば誘惑される。昨夜の御理解ではないですけれども、そのように例えば話を聞いて、いわばまあ私は表現下手ですから、それは神様に頂いて、今日の御理解なんか実を言うたらそれはヒントなんですからね。頂いて御覧なさい。ほんとに味がある。私なんかは味を感じているけど、味を皆さんに表現することが出来ない。もうお道の話というのは、そんなにすばらしいんだ。求めさえすれば、知らんでそれが私が子供のときにね。父の懐ですね。あの話ばしてくれ、この話ばしてくれとそれが、いくつかに限定された話なのですけど、それが結構楽しかったようにね、まあ楽しいというよりも、まあ、それで結構有難くなって帰れるということ。
そうしているうちに、例えば昨夜の御理解でないですけど。身についてくるのです。「神徳を得よ、人徳を受けよ」というような御理解だった。神徳・人徳が身についてくるということ。椛目の人達の場合は、昨日、東さんが今、毎日夜の御祈念に参ってくる。最近部長試験を受けておった。お陰で一次試験がパスした。。ところが二次試験で落ちたという。不合格の通知が昨日来た、ところがなにか昨日はもうどうしてもこれがお陰だということが分かっているんだけれども、お陰の実感が湧いてこない。そのことに一日取り組ませていただいた。先生どうした訳だろうかと、昨日伺いするのですね。まあ、修行不足だね。そのことは右と左とかいう問題ではない。修行不足だ、勉強不足だと、まあそれだけ聞きゃああの人のことですからそこが分かるらしい。勝彦の話をさせて頂いた、東京までもわざわざ大学の受験のために行って二回もスッベて帰ってきた。そんときに、本当にお礼が言えたのは私だけだった、と思うのですね、そういう場合にまことからお礼を申し上げれるということが、次のお陰をもう作っていくんだと、これが神徳を受けていけれるんだね。そのために一生懸命勉強することによって、神徳を得られるのだというようなね。
そういうようなものが神徳・人徳が身についてくる。
これは昨日甘木の高山さんが、お参りしてきた。先生、今朝からお夢を頂きました。先生が一生懸命たくさんの人前で田主丸の田代さんをこの前においてから一生懸命、何にか話をしておられる。その話の中に、田代さんあんたはたった三十五円くらいの手形が落ちんというてその悩みよるけどこれが先々どげんな力になるか、知っとるかというて、それが周囲のものがみんなそう言うことでは中、わかっておるような顔をしておるちゃ、私もそうじゃことなかと聞きよったね。さあ当面しておられる田代さんがその手形が落ちないという手難儀な顔をしておられるけど、聴衆は、それを先々これがどういうお陰の元になるか知っておるか、さあここでお話を聞いている連中は、そのことだったら、直ぐ分かるでしょう。あれがああ、あそこがああ受けていきよるならあれが力になっていくということ。けれども自分のことになるとね、やはり難儀を感じるのだということのです、ですからそれが何故そ言うことになるか、自分のことになったらそれが、甘木のような顔しておらなければならんかというような、今申しますように身についていないからそれなのだ、だからここに先生からキチット気付きをしてもらう、その時は、だれも彼も一様にキチット例えば気付かして頂いているようなものであるということ。昨日のうちにでもですたいね、ところがもう家まで帰るともう気みだれしておるということ。それは身についていないからだと。例えば芸子さんあたりが、着ておる着物なんかというもの本当に今にもしほどけるような帯の穂しかたがしてあるけど、絶対あれは緩まない。襟元一つ乱れない。いつまでも、きとっても、あれは、もう身に付いている事だということね。そのそれももう一つ身のこなし方がやっぱり違うですね。信心のやはり自分のこなしというか、自分の心のこなしというか、自分の心のこなし一つで、信心が身についていくのです。それが、今日私が申しておりますように話を聞いておるうちにです、話をそらんで聞いておるうちに、いつの間か血になり肉になり、それがゴントクまだ神徳・人徳になってお陰を頂いておる。その間に神様のいわば舞台装置というものがです。心の難儀の場面が出ておっても、それから十年後の舞台面という舞台面が設けておるということ、そこのところが私はだんだん分かってくるところに、不動のもの、どのようなことが起こってきても動かんですむ。驚かんですむ慌てないですむ心の状態が出来てくるのである。ために、どうでも一つ皆さん、例えばここでいうならば同じ話ばっかり、スの話をいくつか三つか四つか位そのネタを持っていたのですが、私の言うたことはなにもない。いつも同じこと、いつもにぎやかにから改まらんにゃいかんという話ばっかりになるでしょうがね。けどそれをせがんで頂くような気持ちになるときに、その難儀から例えばお陰のその期間がね、有難く過ごせるだけでなく、その間に不動なものが培われてくる。そこに私は信心の有難さがというものがある。お互いが例えば落語なら落語を聞いておる。また、聞きにいって、後はそのさっきの話ではないけど、その首を調べたら、ところがハナギだったといったようなごとしも、まるきり馬鹿にされているようじゃないか。こんなものまた聞きにいかんぞといわずに、いうところでないでしょうが、うまいなあとかいって帰ってくるでしょうが、名人だなあといって帰ってくるでしょうが、しかもことにならんとぐっどになると、何遍も聞いても聞いてもああ言うことが分かってあるのに、それはやっぱり面白いでしょうね。またもとに聞きに行くでしょう、そういうようなものがです、ね。例えばその、高山さんが頂いた、田代さんと私のあれじゃない。それ、椛目の信者さんが取り巻いて聞いておると。そうどこじゃないと思うてるけども、真ん中に居る田代さんにだけは、もう田代さんそれだとこういうておることなんです。ね。
本当にだんだんそれどころではないと、もう即、それが思えれるようになっていくというところに、ね。これは自分の思いになってはいないけれども、思うようになっていないそのことにですたい、例えば、私が、長男が大学を滑ってから入った時に、もうお礼を申し上げられたのは私だろう、だけだろうとこう言っておるように、(?)さなお礼が言えれるような状態がです、その間できてきて、はあ、こういうわけで下されたのだったという体験が次から次と積み重なってくる時ですね、いよいよ私の心の中に不動の信念とでも申しますかね、その動じない、どのような場合でも動じんですむところのおかげが段々身についてくる。いわゆる、木村さんですむ、うー、着付けだけはもうきちっとしてもらっているんだけれども、それをいつの間にか身体のこなしが悪いために、いー、(?17.24)できないために身に付いていないということ。付いておるようであって付いていないんだと。人のことなら分かるけれども自分のことはわからないと。そこに自分のですね、いわば修行不足というものを悟らないかん。いわゆる求める心の、いわば求道心がですたいね、旺盛でないということです。
よう此の方の道は話を聞いて助かる道と。話を聞いて今の難儀がここが助かるというのではなくて、話を聞い、話を知らんで聞くという態勢というか、ね、それが私共の人生をいよいよ有難い楽しいものにしていくのだということ。ありがとうございました。